「浅川が死んだ。取り返しのつかない損失である。あんなに朝鮮の事を内から分つてゐた人を私は他に知らない。ほんとうに朝鮮を愛し朝鮮人を愛した。そうしてほんとうに朝鮮人からも愛されたのである。死が伝へられた時、朝鮮人から献げられた熱情は無類のものであった。棺は進んで申し出た鮮人達によつてかつがれ、朝鮮の共同墓地に埋葬された。」(柳宗悦:編集余禄 「工芸」1931年5月号
巧さんの亡がらは白いチョゴリ・パジに包まれ、彼を知る多くの朝鮮人がお別れにかけつけ嘆いたそうである。
棺は朝鮮人が自ら進んで担いだ。
あの日鮮の不幸な反目の時代において、、、である。
彼の亡骸は里門里の朝鮮人共同墓地に葬られたが、墓地の移転に際してソウル近郊の忘憂里(マンウーリ)共同墓地に改葬された。
その後歴史の混乱のなかで、彼の墓は行方がわからなくなった時期もあったそうだが、職場でもあった林業試験場の職員達の尽力で再び発見され、きれいに整備され今にいたっている。

宏大な忘憂里共同墓地、203363号。

1984年8月、林業試験場職員一同によって建てられた顕彰碑。
韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に 生きた日本人、ここ韓国の土となる

巧さんはこの墓地に葬られている唯一の日本人。
出生地に「日本國」がついている。

漢江をのぞむ小高い丘の上。
さわやかな風が吹いて、ここは巧さんのふるさと、山梨北巨摩郡(現・北杜市)の景色に似ているだろうか。

近年訪れる人がふえているそうで(韓国人もふえていることを願う)、お供え物など残って古くなったのをとりのぞき、みんなで手分けしてきれいにする。

朝鮮は土葬なので、お墓の実体は後のこんもりとした土饅頭。

韓国式祭祀(チェサ)の準備はすべてガイドの姜さんがととのえてくださった。
韓国式礼拝の仕方は林業研究所でお世話になった白さんが自らおしえてくださる。
これにならって全員が巧さんのお墓の前で、ぬかずく。
とても自然な気持ちで頭をさげた。
写真の中でしかしらない巧さんを身近に感じた気がする。
この奇跡のような人間が、確かにこの地に生き抜いたのだ。
そして、ここに眠る。
この墓参りこそ、今回この旅に参加した一番の理由だった。

とても彼のように生きることはできないが、人間として背筋を伸ばさなければならないとき、ふと彼の生き様を思い出すことで背中をおしてはもらえまいか。

お参りのあとはお供え物をみんなでわけていただく飲服という習慣が韓国にはある。

基本的になまものなので、栗も生で口にする。
お米のケーキのような物は薬食(ヤクシク)といってお盆の時に本来食べるものだそうな。

これからもずっとこの丘に眠り続ける巧さん。
お別れの時です。

その墓地で採取した葉(ドングリ系か)を押し葉に。
見るたびに、いつでもあの忘憂里の丘にふいていた風を思い出せるかな。
「巧さんの生涯はカントのいつた様に、人間の価値が、実に人間にあり.それより多くでも少なくでもない事を実証した。私は心から人間浅川巧の前に頭を下げる。」
(安倍能成:浅川巧さんを惜む 「京城日報」1931年4月28日〜5月6日)
* * *
今回ご一緒させていただいた方々はそれぞれの方面で浅川兄弟に興味をもっておられ、熱く彼らのことを語れたのはうれしい体験でした。
なにより現地に何十回も足を運んで韓国人よりもよく現地事情を知っているといわれ、豊富で誠実な人脈を築いてこられたこのツアープロデューサーの山本先生には驚きでした。
こんな熱い研究員さんがいるから、最近高麗美術館、メジャーになってきてるんですね。
そして楽しく気持ちよく旅することができたのは現地ガイドの姜さんのお人柄のおかげです。
これまた誠実を絵に描いたような白さんに、ちょっとだけ巧さんの面影をかさねたりして。
皆々様、ここに深く感謝いたします。