
(兼六園 源氏香蹲居)
ちょっとうたた寝をしている間に、仕事の夢を見た。
いまは半分リタイヤ気分だけれど、30代、40代、一番責任も重く、気力も体力も充実していたとき、繰り返ししてきた仕事の光景を見、自分の手の動きを見た。
まあ、いまだ完全リタイヤではないのだけれど、おそらく人生で一番いそがしくて、しんどくて、でもそれが報われた時期のことを体が、心の底の底がおぼえてるんだろう。
その時にふともう30年ちかく前のある情景が目に浮かんだ。
その人は癌の末期で病院のベッドに寝ていた。
食事はもうのどを通らず、ベッドをはなれることもかなわず、悪液質が頭までまわって、時々譫妄におちいったりもしていた。
家族ともおりあいが悪いらしく、たった一人の息子も嫁もあまり顔をださない。
病床でひとりの長い時間をどういう気持ちで過ごしていたのだろうか。
ある日病室に入ったとき、その人の痩せた細い腕が宙でうごいているのを見た。
仰向けで、腕を上に突き上げて、、、、
あ、これは編み物をしているんだ!
と、瞬間気づいた。
若い頃編み物が得意だった、編み物で生計を助けた、と話を聞いていたから。
人の気配にその手はすぐ、ふとんの中にしまいこまれたけれど。
その時私はまだ20代で若く、苦労というほどの苦労を知らなかったので、それきりだったのだけれど、なぜかあの宙を編んでいた手の情景だけは忘れられなかった。
その人はしばらくして亡くなった。かろうじてやってきた息子夫婦だけに看取られて。
なんだか寂しい亡くなり方だったように思う。
この年になって、思う。
あれはあの人の一番忙しくて、でも幸せだった時代を体が思い出していたのではないだろうかと。
人生を一本の直線にたとえると「今」は中間点を越えて、終点に近くなっているのは確か。
だから時々考える。
自分の死に様はどうなんだろう。
死期が近づいたとき、一番幸せだった頃のことを振り返るとしたら、どの時代なんだろう。
くりかえしくりかえし、心も体もその時代をなつかしむだろうか。
死ぬときに自分をかこんでくれる愛する者ははたして、どれだけいてくれるだろう。
と。