2008年02月03日

南木 佳士 「トラや」

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最初書店の新刊本のコーナーで見たとき、あれ?「トラや」って、わりと昔の本では?と思ったが、いや、あれは内田百�の「ノラや」だった!
でも当然、この作品を意識してつけたタイトルだと思う。
文庫本をほんの一まわり大きくしただけの小さい本で、半日あれば読めます。

作家であり、内科医でもある作者の自伝的作品で、特に鬱で苦しんだ数年間のできごとを、その間家族の生活によりそった猫、トラへの思いをからめて綴っています。

南木 佳士さん、という作家の名前は知らなかったが、映画にもなった「阿弥陀堂だより」の作者と聞いて、ああそうか、と。
あのお話も鬱で苦しむ奥さんが出てきていました。

信州の病院の内科医である「私」が鬱を発症し、自殺を何度も考えていた頃のこと。妻は夫が自殺しないように刃物を片付ける日々に加えて、夫の老父の介護もひきうけ疲れ果てている。
小学生の息子たちは父へ気を遣い、母へわがままを言うのをがまんする日々。
トラはもと野良猫で、ある日母猫といっしょに餌をもらいにきては、いつのまにか、この家にいついた子猫。

ある日妻の目を盗んで、刃物を手に死を考えていたとき、腹を空かせた子猫が餌をねだって足にからみつく、、ふと憑きものが落ちて自殺をおもいとどまった「私」。
そこから始まって、この家族にふりかかる人生の様々なできごと、(いいことも、悪いことも)「私」の鬱との戦いの15年間が静かな筆致で書かれる。
その生活の中にいつもトラがいた。
トラが2〜3日帰ってこないと家族全員で探しに出る。
大けがをしてねこんだトラが寝ている部屋を、かつてそこに寝たきりになっていた老父の時よりも頻回に家族みんなが訪ねる。
トラが行方不明になり、所在を確認できないまま、親戚の不幸であわただしく家を2〜3日空けた時、心配する妻にトラが仏壇の中にいる夢を見た、という「私」。帰ってみるとやはり玄関に迎えにくるトラはいない。ところが仏壇に線香をあげ、鈴(りん)をならすと、トラは何事もなかったかのように仏壇の脇からにゃあと出てくる。抱き上げて泣く妻に「泣くことはないよなあ。」と言いながらも自分も泣いている「私」。


(本文より)
・・・・・
トラは人間を感心させるような芸はまったくできなかったし、顔が大きくて鼻が低く、太っていて食べ方が下品だった。飼い主が食事をしているときも、好物の海苔が食卓に出ていると、味噌汁の椀を持つ妻の手に頭突きをくらわせてねだった。そのたびに味噌汁をこぼす妻はきつく叱るのだが、この種の行動は晩年になってもあらたまらなかった。それでも、トラはいつのまにか家族統合の要になっていたのだった。・・・・・

老父を見送り、やがて子供たちも親元を離れ独立し、いつのまにか「私」の鬱もいえた頃、「私」たち夫婦が50の坂を下り老境に入ると時を同じくして、トラも老いをみせてくる。外にも出入りできなくなる。段差を超えられなくなる。
そして、この15年間起こったこと、すべて見届けて15歳の天寿をまっとうする。




トラが逝った後、旅行から帰った夫婦。

(本文より)
・・・・日曜の夕方、すっかり暗くなってから家に着いて玄関を開けると、またトラを探してしまった。それは妻も同じだったらしく、二人そろって無言のままため息をついた。互いの息が奥から走り出てきた不在のトラにかかり、透明な輪郭を浮き上がらせた。二人とも敷物の上のトラの気配をよけて、上がりかまちの両端にザックを置いた。(完)

やはり、涙してしまうラストシーン。


ふとかたわらにうちの二匹の猫が丸まっているのを見た。
そうこうしているうちに"どうしたの?"という風にニャア〜と鳴く。
そう、うちの猫も特別なことはしない。
でも猫を見ていると、この子たちがうちに初めて来た10年前から、子供のことや家族にあったいろいろなことを思い出す。猫はそう思っていないかもしれないが、私はずっとこの子たちが私たち家族に心をそっとよせてきてくれたように思う。
すべては思い過ごしで、私の心の投影にすぎない、、といえばそれまでだが、この子たちがうちに来た必然性がどこかにあったはず、と信じている。

わたしたちもこの「私」たち夫婦と同じく、子供たちが巣立ってみれば、気がつけば老境に足を入れ、そして猫たちもまた。
若い頃はわたしが階段を上るとき、横をすりぬけ、私より先に2階へ上がって自慢げだったのが、だんだん遅くなってきた。
わたしを追い越せなくなる日がいつか来るのだな、と思う。
一緒に過ごせる時間は残りの方が少ないのだろう。だから、その残りを一緒に老いていこう。最後はちゃんと必ず看取るから。
そして遠くに離れた子供たちの心にも、私たちの心にもずっと生きていてくれますように。


そんなことを考えさせられた本でした。









posted by しぇる at 23:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・映画 | 更新情報をチェックする

2007年11月19日

「京都大不満」

Rns9iysl 題名だけ見ると、また京都人のイケズみたいなことを書いてるんかな?と、思いがちだけれど、いいえ、いいえ、どうして、京都の持つ日本の都市としての特殊性や、ひいては日本の国際都市としてのあり方まで提起している本でした。


作者はどういう方なのか、いまのところ他に著作がないみたいなのでわかりませんが、祇園で生まれ育ったイタリア系イギリス人の夫を持つ、御所西生まれ、祇園や上七軒などにすんでいた、筋金入りの京都人だそうです。




小学生の娘さんがいてはるそうで、年齢で言うと30〜40代くらいの方とおみうけします。

京都の衣食住や伝統行事、歴史的地理的背景など、京都で生まれ育った人しか書けないだろうなあという観点で書いておられます。
ただ、京都礼賛ではありません。京都という日本では特殊な都市を、冷静かつ時には批判的にみてはって、ではこれからこの町はどうあるべきなのか、ひいては日本が伝統文化の化石を抱いたままアジアの片隅の国にならないようにするには京都はどう役割を果たすべきか、など結構硬派な本です。

いろいろ目からウロコの内容がたくさんあるのですが、特にそうだなあと感心し、興味をもって読めたのは、京都の景観論争からはじまって、伝統文化は古いままそれにしがみついて守るだけでいいのか?というくだり。

例えば、明治中期に完成した琵琶湖疎水。
当時は景観破壊として槍玉にあがり、福沢諭吉らは猛反対の論戦を展開したという。確かに南禅寺にいまでこそ名所になってる水路閣のレンガ造りは、当時としては異様なものだったに違いない。
しかし!
東京に都が移って衰退した京都は琵琶湖疎水のおかげで経済復興をなしとげ、日本初の水力発電書が完成し、電力供給が可能になり、日本最初の市電が走った。琵琶湖疎水が建設されなかったら今日の観光京都の繁栄もなかっただろう。

つまり、伝統的景観に固執せず、新しいものの息吹を積極的に取り入れていた明治には京都には都市としての活気が存在した、、、ということかな。
これは一つの例で、筆者が言いたいことは次のくだりに要約されていると思う。

”京都がフィレンツェと同じ扱いにならないのは、(中略)歴史都市を次代に受け渡すための工夫をほとんどしてこなかったためで、守ろうとすると壊れるのが伝統美。都市デザインが満足に描けないのに、古いものを守るか守らないかの論争をしているから、都市景観が崩壊していくのを傍観しているしかない。”

”歴史都市を美しく保つには、経済活動においても先進的でなければならない。(中略)古いものにこだわる人はしばしば伝統に疎い。文化は普遍ではなく過去を振り切って進む生き物。伝統について保守的なままでいると伝統破壊者になっても気づかないものだ。”

今でこそ、渋い奈良のお寺も、できた当初は大陸系、きんきらの極彩色だったはずで、銀閣寺と比べて、金ぴかすぎる、と日本人には受けが悪い金閣寺も、建築当初はやはり、金キラで、そうでなければ華やかな北山文化の粋は語れない。、、、、なるほど、確かに。


「京都愛好家の幻想」というくだりでは、私には耳がいたいこともいっぱい書かれている。

”、、、町家がこれほど礼賛されるのも、現代の住宅建築が無粋で退屈で鑑賞に堪えないからだ。しかし町家のデザインに焦点を当てたとき、奉り過ぎではないかと思う。(中略)日本の伝統美はくすんで色彩に乏しい。その陰影の美こそ日本独特であって、そこに絶妙な調和と落ち着きの世界がある。それがわかるひとは深い芸術の理解の中にいる。そういわれれば返す言葉がない。そうして町家を眺めればなるほど美しい、これぞ後世に残すべき大切な文化財、、、(中略)京都に暮らす外国人にこうした錯覚の美の中に遊んでいる人をしばしば見る。”

(うっ!これって私のこと?)


”町家に着物で住んで、趣味の工芸品を作り、お茶やお花をたしなむ。弘法さんや天神さんで骨董品や古い家具を物色する。そんな絵に描いたような京都暮らし、、、は流行か。”

(う〜ん。将来の京都暮らしに私が描いているイメージそのままやんけ。
これは幻想なのねぇ、、汗)

(でもでも、)

”実用価値で町家をとらえるなら、手頃な家賃で案外なところに住める。昔ながらの暮らしも体験できて便利。、、(中略)お年寄りの多い町中では、おつきあいの幅が広がり、伝統をになっているさまざまな職業の人たちと知り合いになれる。生活の中にお茶やお花の世界が入り込んでいる。京都らしいあたたかな人情に触れることができる点で、これに優るものはない。”

(うん。そうだろそうだろ)

”町家が好きでたまらない人が京都人にいるとは思えないし、、、(中略)どうも景観論の引き合いに町家に焦点をあてるのが流行になっているらしい。京都暮らしのイメージだけが先行しているのだ。”

(はあ、京都人からみたらそんなもんですか、、、、)

いや、ますます京都に住むのはてごわいなあ、と思う反面、京都の景観論争がいかに将来へのはっきりしたビジョンがないままなされてると思うと、だめじゃん、京都人、と思ったり、伝統文化が濃密に集中している京都がだめなら日本全部が伝統文化国家として傾くし、しっかりがんばれ!と思ったり、、、。楽しめました。

京都大好き人間(特に京都以外に住んでいる人)は是非ご一読を!




posted by しぇる at 01:40| Comment(8) | TrackBack(0) | 本・映画 | 更新情報をチェックする

2007年10月26日

パンズ・ラビリンス

スペイン語の聞き取りに、と見に行った映画ですが、そのストーリー、映像の暗い美しさ、主人公の12歳のイバナ・バッケロのクラシックなかわいさに、良い作品を見た、という実感。


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題名は「パン(牧神)の迷宮」(スペイン語でEl Laberinto del Fauno)。いかにもお子様向けファンタジー?って感じですが、さにあらず。12歳以下お断りの映画なのだ。
ハリウッドやディズニー映画ではありえないストーリーと、かなりエグい映像のダークファンタジーとでもいいますか。
(お子様にはおすすめしません。見たら夜泣きか、おねしょしちゃいます。きっと)

監督はメキシコ系のデル・トロ。で、全編スペイン語。だからアメリカでの公開は英語の字幕というのに、アカデミー賞3部門受賞とは、アメリカにおけるヒスパニックの勢い、侮るべからず!という感じですね。


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舞台は内戦後、フランコ将軍支配下のスペイン。
スペイン内戦(1936~1939)の悲惨さは映画“蝶の舌”などである程度知識はありましたが、その後のファシスト、フランコ政権下のレジスタンスについては知りませんでした。

このフランコ政権の象徴とでもいうべき主人公オフェリアの継父の大尉のモンスターぶりが怖いんです。(外見ではなくその残虐非道な性格が)最後はたおしてもたおしても追いかけてくるターミネーター状態。


主人公は父親をなくした童話好きの少女オフェリア。
ただ自分の息子が欲しい、という道具のためだけに美しいオフェリアの母を妻とし、その体も心もいたわろうとしない、継父の大尉。
彼は反フランコ・レジスタンスや、貧しいが故に夜の森で兎を狩っていた農夫などを非人間的、サディスティックに殺します。
そして自分の血を引く息子が産まれることのみを待ち望んでいます。
しかし体の弱い妊娠中の母は長旅の疲れもあって日に日に弱っていきます。
悲惨な現実の中でオフェリアは森で出会った妖精(これがまたかわいくない。)に導かれ、パン(牧神。これまた信じていいのか悪いのかわからないくらい、怪しく、不気味)のいる迷宮へ。

パンは、オフェリアは実は地下の魔法の国の姫、モアナで、地上に出たため記憶を失っているのだ、と告げます。
そして父母の待つ王宮に帰るには3つの試練をやり遂げることが必要と言い、”道を標す本”をわたします。

ここから、彼女のファンタジー世界での試練と、過酷な現実が平行して進行します。

ファンタジーの世界では花の木を枯らす巨大な粘液たっぷり、という感じの蛙や、掌に目がある子供を喰うペイルマンという怪物(超怖い!けど、どこかユーモラス)、どこでもドアみたいな性能を持つ?チョークなど、おどろおどろしいけれど、でも映像的にとても美しい。暗くて美しい。

一方現実世界では、母親の死や、唯一心を慰めてくれるメイドのメルセデスや、レジスタンスにひそかに味方する医師に対して残虐さむきだしの大尉。森の中でのレジスタンス部隊と大尉の部隊の血で血を洗う衝突など、次々と人が殺されてゆく救いようのない日々が続きます。

そして最後にファンタジーと現実がクロスする時、オフェリアは最後の試練を成し遂げるために、大尉と対峙することになります。

母を亡くして、その後残された産まれたばかりの弟を抱きしめ、最後の試練でオフェリアが下した決断は、、、
これは見てのお楽しみ。

決してハリウッド映画みたいにハッピーハッピーには終わりません。でも、救いはあります。
彼女の下した決断こそが、この暗い暗い映画の唯一の救いだと思います。

最後に、残虐非道人間の大尉のために、ひとつ弁明しておくと、彼は父親から遺された、自分がいつ死ぬかを示す懐中時計を持っています。
常にこの時計をチェックし、実は刻々と減っていく残された時間の恐怖と必死に葛藤していたのかもしれません。これが彼を単なるモンスターではなく、苦悩する人間として存在に厚みを持たせているのだろうと思います。
(それに裂けた口を自分で縫っちゃうなんて、どこか滑稽だし。)

マイナーな映画館でしかやってませんが、10編のハリウッド的な映画より価値があります。(別にハリウッドが嫌いな訳ではありませんが、、、、)

それにしても、オフェリアを演じた12歳のイバナ・バッケロおそるべし。
無垢な少女でありながら、特に巨大蛙に石をのませようと、虫で釣るときの表情が、少女とも思えないくらい色っぽい。
う〜ん、男を誘惑する女の顔をちらっと見せるんですね。
あと何年かしたら、ペネロペ・クルスのような女優になるかもしれません。[E:lovely]
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