2009年07月15日

「宵山万華鏡」森見登美彦

やっとでました!

久々の森見登美彦さんの京都ファンタジーです。

森見さんと言えばきつねのはなしなど、京都パラレルワールドの話を書かせたらピカいちです。

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宵山といえば、私には、大學にはいった年の最初の宵山が思い出されます。それだけ初めて見たときのインパクトが強かったのです。

子供の頃、夜店の出るお祭りは、故郷の町でもなぜか不思議な空間で、きらきらする照明やら、焼きイカのにおいや、綿菓子、金魚すくい、、、いつもの町とまったくかわってしまうことにわくわくしたものでした。

ただそこにはやはり闇のような空間も確かにあって、「あんまりうろうろすると、子捕りにつれていかれるよ。」という大人の言葉が妙にリアルに聞こえたものでした。

それが祇園祭宵山では都市レベルであるのですから、それはもう田舎からでてきた女学生をびっくりさせるに十分でした。

さて、この本ですが、なにしろこのタイミングで出すか〜!、という宵山の話なのです。

読んでいると、鉾の名前と鉾町あたりの地名がいっぱいでてくるのです。

室町通を上ル、六角通りを西へ、蛸薬師下ル、御池を東へ、衣棚町(京都のひとは、ころもんたな、、と読むらしい)、地図に載っていない通り抜けの小径のひとつ了頓図子(りょうとんずし)まででてきちゃう。

(こうして書くと、京都の地名って雅びです。絶対に地名整理なんかしてほしくないです。)

そぞろ歩くのが好きな室町界隈なので、本の中に出てくる町や通りの名前をみては、頭の中の地図をたどるのもまた楽し。

キーになっている場所、室町三条といえば、素夢子古茶屋さんのあるあたりですねえ。

読んでいるだけであの駒形提灯やら、屏風祭の旧家やら、夜店にむらがる人々の姿が目に浮かび、雑踏のざわめき、祇園囃子、ちまきを売る子供たちの歌が聞こえてくるようです。


地名は実際京都に住んでいたら(あら、私はまだ住んでいなかったわ[E:coldsweats01])ああ、あそこ、とすぐわかる慣れ親しんだ場所の名前がてんこもりなんですが、そこは森見ワールド、すでに別世界の京都になっております。

ところがそのつくりはさらに多層的で、パラレル京都の、さらにもうひとつ別のパラレルワールドが宵山の夜、出現するのです。


ひとつはあくまで楽しく、賑やかなおもちゃ箱をひっくりかえしたような世界。

もうひとつは「死」の匂いのする、ちょっとダークな異界。

これが象徴的にあらわれているのが実は表紙なんです。

これは私も読み終わるまで気づかなかったのですが、あくまで楽しくおとぎ話のような表紙の後ろに、もう一枚の表紙があって、それは、、、、

あとは実際に手にとってごらんくださいね。[E:bleah]

狂言回しのとても怪しい骨董屋、杵塚商会というのもでてくるんですが、これは「きつねのはなし」に出てきた同じく怪しい、かくりょ(幽界)と通ずる一乗寺の骨董屋と実はおなじ骨董屋なのかもしれません。




それにしても、こんな不思議な時空がほんとうに宵山のにぎわいのなかに、ひそかにしのびこむ、、ということがあってもおかしくない、と思えるのが京都特有の町の構造なんでしょうね。

近代的大通りを一本中に入ると、迷路みたいな小路やろうじがかくれていて、普段の時でさえ、あら、別の時空にまぎれこんでしまったのかしら?と軽い眩暈をおぼえることがありますもの。

考えてみれば、一ヶ月もかけて、町一番の大通りを占拠するお祭をするなんて、京都以外では考えられないのではないかしら。

夜は短し歩けよ乙女ファンの「あほうな大学生」が好きな方も堪能いただけますよ。ちょっとかぶって登場する人物もいますしね。


posted by しぇる at 22:16| Comment(6) | TrackBack(0) | 本・映画 | 更新情報をチェックする

2009年06月11日

”苦労は身につけよ”

浅田次郎さんは好きな作家の一人なのですが、少し前から「週刊文○」に小説を連載中です。

老境に達した、新撰組最強の剣の使い手、斉藤一(はじめ)が近衛師団の士官に自分の半生を回顧して語る、というスタイルの
「一刀斎夢録」。

(斉藤一、NHKの大河「新撰組!」ではオダギリジョーさんがやってましたね。)

おもしろくて、週刊誌を手に入れたらまず読むのですが、今週号の中のセリフにちょっと心うたれて、かくありなん、と思うせりふがあり(この頃記憶力がぱ〜ぷ〜なので)、ここに記しておきます。

セリフは吉村貫一郎のもの。

そう、あの同じく浅田作品で、映画にもなった「壬生義士伝」(これも週刊文○連載だった)の主人公ですよ。こんなところにもでてくるのです。

乞食の如く落ちぶれた武家の少年兄弟を、新撰組にひきとって自分がめんどうを見る、と決めたときにまだ幼さの残る兄弟にいってきかせたせりふ。

「ただし、ひとつだけ約束せよ。苦労は男子の本懐だが、その苦労を決して看板にしてはならぬ。君たちの苦労はこの吉村がすべて承知したゆえ、二度と口にするな。苦労は口にしたとたん身につかずに水の泡となってしまう。身につけよ、よいな。」


苦労を看板にするな、身につけよ、、、いいせりふだなあ、、、、。

とかく自分はこんな苦労をしてきた、とかいいたくなるものだが、他人には関係ないことなのだ。

理解もされないだろう。おのれひとりがわかっていればよい。自分一人の宝とすればよい。

これは自分への戒めとしても、しっかり心に刻んでおこう。(ってすぐ忘れるんですけど、、、悲[E:sad])



(↓本文と関係ありません)

鶴屋八幡の上生菓子。

銘は、、、忘れました。[E:gawk]

露草をあしらった餡を調布(小麦粉の薄焼きみたいなもの)でくるんだお菓子です。



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posted by しぇる at 23:25| Comment(8) | TrackBack(0) | 本・映画 | 更新情報をチェックする

2008年11月22日

スイス映画「マルタのやさしい刺繍」

スイスで大ヒットした映画です。(ドイツ語あとちょっとのフランス語)

時間をやりくりしてやっと見に行くことができました。

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原題は"Die Herbstzeitlosen"

コルチカムという花の名前で、直訳すると「秋の時知らず」

花の少ない秋に咲くので、人生の秋を迎えてからもう一花咲かせる主人公達の象徴にもなっています。

舞台はスイスのエメンタール地方(エメンタールチーズが有名)というまだまだ封建的で、敬虔なカトリック信者の多い片田舎の町。

夫に先立たれ悲しみからすっかり鬱状態になりひきこもっている80歳のマルタ。

たのまれていた村のコーラス団の団旗の修理材料を調達するためにバスに乗って、ベルンへでかける。
ベルンの生地屋で、美しい色とりどりのレースやシルクの布を見て、さわっているうちに、若かりし頃の夢を思い出す。

それはパリのシャンゼリゼに自分で縫いあげた美しいランジェリーのお店を出すこと。

それは夫からあきらめてくれと頼まれ、かなわなかった夢。

彼女はその夢を今こそかなえるべく、鬱状態からたちなおり、行動を開始する。

とはいえ、小さな、因習深い村のこと、ランジェリーショップなんていかがわしいと村の人たちは罵倒したり、軽蔑したり、いやがらせをしたりと前途多難。

牧師をしている息子のヴァルターも、「いい歳をしてみっともない!」と母親の夢を理解しようとしない。

唯一の理解者で協力者のシングルマザーのリジー。
彼女もアメリカかぶれと陰でいわれている。

最初は批判的だったフリーダとハンニ。

フリーダは元社長夫人で夫に先立たれたあと、大金をはらって高級老人ホームにいるが、皮肉屋で、かたくなな心でまわりとうち解けようとしない。

ハンニは牧場の仕事をしながら車椅子の夫の介護をしているが、その通院に車で往復3時間かかるのため、運転をいやがる息子フリッツに、自分の仕事のさまたげになるから、遠くの老人ホームへ行けといわれる。

4人の老女それぞれが決して幸せな境遇にいるわけではない。

親子関係も子が親を一方的に押さえつけている。


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決して声高に主張はしないけれど、村人の非難やあざけりをさりげなく受け流し、困難に立ち向かい、自分の夢をあきらめずに実現させようとするマルタ。

昔習った下着作りを思い出すためにミシンと格闘し、彼女が作りあげたランジェリーはとても上等で気品があって、そして美しいものだった。

彼女の姿にいつのまにかフリーダもハンニもそれぞれ新しい一歩を踏み出すために、マルタをサポートするようになる。

夫と二人で自立するため、通院の車を自分で運転できるようにと、教習所へ通い始め、息子フリッツの横槍には家出で対抗するハンニ。

老人ホームの職員や同じ入所者に協力をあおぐことで他人に心をひらいていくフリーダ。
彼女はホームのパソコンクラブでインターネットを習い、村では誰も買ってくれないマルタの下着をネットで売ることを考えつく。

その際、製品に特徴を持たせようと、下着1枚1枚にエメンタール地方独特の小さな刺繍をいれることにした。

それが評判をよんで注文がたくさんくるようになる。

刺繍が間に合わなくなり、フリーダのホームの刺繍クラブの人たちに応援を頼むなど村人をまきこんでいく。いつしか批判的だった人たちの中にも理解者が増えていく。

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順調に見えるその中、最後までのこる敵が息子達、ヴァルターとフリッツだった。


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これはマルタの店からヴァルターがランジェリーを撤去し、ゴミ箱に捨てたのを夜中に4人で回収に行く場面。

4人の老女がへこたれないでしたたかに生きている象徴的なシーン。

ついに男性コーラス大会の日、マルタは息子達と対決する。

、、、、、、、このあとは是非映画をご覧下さい。

         [E:note]    [E:note]     [E:note]


私の年代としてはこの映画、二つの違う視点から見ることができました。
いずれくる未来の自分の老年期のモデルとしてのマルタたちの視点と、老親の介護を考える子供達世代の視点からと。



もう歳だから、年甲斐がないから、、と一体いくつのことを歳をとるとあきらめなければならないのだろうか、と漠然と老年期は孤独な物、暗く寂しいもの、、と考えていたのですが。

自分で自分を「老人」という枠におしこめて、(だれもそうしたってほめてくれるわけでもないのに)人目だけを気にしてすごすことが果たして「生きている」といえるのかどうか。

生きているとは、少しの勇気があって、自分のしたいことがあって、困難と闘いながら実現しようとすること。
それは歳をとっても同じはず。

実際には、歳をとってから健康体であるとは限らないし、したいことを続けるモチベーションをどこまで保てるかわからないけれど、なにかの拍子にこの映画のテーマを思い出せたら、、と思う。

(97歳でミニミニキューピーの洋服をお孫さんのお店のために編み続ける元気なひさのちゃんがマルタにかさなります。キュートです。かくありたいものだな〜。)

次に息子世代の視点から。

この映画では夢を叶えようとする老人たちを押さえつけ、物事を決める権利を徹底的に否定する「悪役」になっています。

でも今、私はこちらの世代に属するので、ついつい感情移入をしてしまいます。

仕事に脂ののっている一番忙しい責任の重い世代であり、親を思わないではないのだけれど、つい自分の都合を優先させるために頭ごなしに「勝手なことをするな!」とコントロールしようとする、、、。

思い当たることがないではないので、少し我が身を反省。

年寄りをなにもできない幼児扱いをするのはまちがっている。

親だと思うとよけいに遠慮なく抑圧してしまうのはつつしまなければ。



最後に、村人も息子達も思わず拍手を送ってしまうマルタの言葉。
かみしめたいです。


「見つけたの。生き甲斐を。
   喜びもね。 そう、生きる喜びよ。 歳は関係ない。」
posted by しぇる at 21:31| Comment(6) | TrackBack(1) | 本・映画 | 更新情報をチェックする
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