2012年10月24日

弘道館〜秋の茶事2012

気がついたときには出遅れて、すでに満席、今回の秋の茶事はあきらめていたのに、日ごろのお茶への精進がおよろしいので([E:coldsweats01]ウソ)うまくキャンセルが出てすべりこみできました、弘道館の秋の茶事。



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空も秋晴れでさわやかな1日となりました。

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日ざしも影も淡くなってきましたね。

この日の御連客は9名。
こぢんまりしたよいお席でした。

待合掛けは沢庵宗彭の画賛を松平不昧公が写した物で、馬追の絵。



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本席の掛け軸は清巌宗渭の消息。

(清巌和尚といえば「今日庵」の名のもとになった「懈怠の比丘明日を期せず」のお方です。)

大徳寺170世住持でしたが、その前に堺の南宗寺にもおられたので、「南宗寺」のサイン。
宛先は片桐石州。

石州に清巌和尚が頼まれていたものなのか、利休の茶杓の筒ができたので受け渡しの日を相談、、、云々の内容。




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日付が九月十五日。
旧暦の今頃で、それで掛けられたとか。

待合の澤庵さんも南宗寺におられましたので、それのつながり。


もう一つの床には歌舞伎役者、4世中村富十郎の筆になる栗の絵。
(彼の後妻さんは昭和の夕霧太夫)





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弘道館スタッフ手作りの懐石はとてもおいしい。
こんなに上手に自分で作れたらなあ、、、。

そとは明るい日ざしなのに、茶室の中はほの暗く、まずい写真ですが、強肴のお皿。
とぼけたおぢさんがのぞき込む一閑人のようなユニークなお皿は、多分脇山さとみさんのものだろうな。
(弘道館で個展しはったし。あ、夢風庵様の師匠でもあるし。)





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これを白いお皿の上で撮るべきでした!
透明なきれいな金色だったんですが、これではなにがなにやら、、、、[E:coldsweats01]
これ、卵の黄身の味噌漬けなんです。

風炉は侘びた板風炉、中置。


板風炉の炭出前の羽根の扱いを初めて拝見。

香合は南京瓜。もうすぐハロウィンだし。



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お菓子は栗のきんとん。

栗きんとんを作るのは老松さんだしお手の物なんですが、お店に出ているのは立派な丹波栗が原料。
ところがこの日の栗は、なんと弘道館の庭で収穫された栗を使ったのですって。

全然お店のものと遜色ありません。
いいなあ、そんな栗のなる木が庭にあるなんて。

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中立のあとの後座。

後座のお花は藤袴、リンドウ(正確な名前は失念)、それにとってもめずらしい初見の紀伊上臈ホトトギス。

黄色の花で一見茶の花のように見えますが、花の裏をみるとまぎれもなくホトトギスの仲間。

竹の花入は弘道館館主、浜崎さんのお父上の手作りとか。
すごい!

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水指が韓国のキムチの壺(種壺みたいな、、)。
これがなかなか渋かった。

私も韓国で調達した見立て道具がそろってきたので、韓国茶会したいなあ。

よいお服加減の濃茶をいただき、続き薄のお菓子はにぎやかに。


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ふきよせ。

たくさんいただきました。[E:bleah]


主茶碗の模様が、秀吉の北野大茶会の高札を淡々斎がそのまま写したもの。

ちなみに北野大茶会は旧暦10月1日(新暦11月1日)におこなわれたので、時候のもの、ということになるのです。
なかなか面白いお茶碗でした。

私は太田さんデザインのお茶碗でいただく。
内側に柿の絵。外側に紅葉。そして高台の中にツクバネという楽しいお茶碗でした。


毎度毎度書いていますが、今回も太田さんの蘊蓄、楽しく拝聴し、佳きひとときすごさせていただきました。


posted by しぇる at 23:00| Comment(4) | TrackBack(0) | お茶と着物3 | 更新情報をチェックする

2012年10月22日

神無月雑記2012

<その1> 着物の染め替えと髪飾り


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これは私が学生時代から着ている色無地・一つ紋です。

学生の頃は淡いクリーム色でした。
嫁にいくにあたって母がこのカレー色金茶色に染め替えてくれました。

なにかにつけ便利な色無地ですが、なんだかね〜、この色顔写りが悪いというか、顔色が悪く見えて老けるんですよね。(まあ、確かに老けては来たが)

で、2度目の染め変えをお願いしました。

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明るい臙脂色にしました。

生地がよかったのか(おかあちゃん、ありがと)2回染め替えてもつやが失われていません。


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太陽光でみるとこんな感じで、やっぱりこの方が顔写りよいし、ちょっと若く見えるし[E:coldsweats01]正解でした。

まだまだ活躍してくれそうです。
そう思えば着物ってほんとうに経済的。


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四条祗園近くの和髪飾りのお店、金竹堂で欲しかった柘植の髪飾りを買って、、、


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こんな感じでお茶会へ行きましたとさ。


<その2> 灰型・向山


10月はお茶では名残の月。
風炉もそろそろおしまいです。

この季節独特の中置(風炉を畳の中央において、水指が勝手付に移動)用に向山を作る。



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おお!
美しい向山!

、、、、、ってこれは師匠のです。

私のはこちら。

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なんだかなあ、、、[E:coldsweats01]

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家の風炉はとうとう片付けました。
いよいよ炉の季節ですね。

<その3> ソウル旅行・補遺

キンキラキンの華やかな建物が立ち並ぶ宏大な昌徳宮(李朝の離宮)の一部に、こんなひっそりした渋い建物群があります。

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楽善斎とよばれる建物で、王亡き後の未亡人になった王妃や王の側室が住んだ場所。


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この渋さが日本人にはしっくりきます。

日本の梨本宮家長女であり、李朝最後の王妃となった李方子(まさこ)はここで暮らして、1989年、ここで亡くなられたのだそうです。
(以前来たときに説明は聞いているはずですが、さっぱり記憶にない。というかそういう説明なかったのかも。パンフレットにも書かれていないし)



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日韓併合による確信的政略結婚でありながら、ご夫婦のお互いへの愛情は深かったそうです。

敗戦によって李垠・方子夫妻は王族ではなくなり、一在日韓国人となり日本で細々と暮らされ、希望した韓国帰国も当時の大統領李承晩により拒否されました。

1963年夫妻はようやく帰国を果たされましたが、7年後御夫君と死別され、韓国に帰化し、ここ楽善斎で暮らしたそうな。

以後亡くなられるまで、韓国の障害児教育にとりくんだり、日韓関係改善のために尽力されました。

かつての宮家の中にこんな背筋をのばして、激動の歴史の中、自分の分を見事に生き抜いた方がおられたとは。
ここはそんな方が暮らした場所だったのだなあ。


<その4> 三条京阪で、「重陽に寄せるお茶ノ時間」




10月23日は旧暦で9月9日、重陽の節句です。
新暦だと菊がまだそれほどきれいに咲かないけれど、今は菊の盛りですね。




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三条京阪にあるレストラン街・KYOUENの真ん中に突然お茶室が出現。


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好日居さんが2日間だけ出張茶会をされました。
(京阪主催で無料だったんですよ〜)

気分は「賣茶翁」だそうです。


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菊のしつらい。
どんなスペースでも茶室になるこの不思議。
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このグラスの中の日果さんのお菓子。



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取り出してみると、、、おお、小菊だ!



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あいたグラスを差し出して、抹茶をそそいでもらう。
菊花をちらした菊茶!


寿命がのびそうですね。
posted by しぇる at 22:50| Comment(6) | TrackBack(0) | お茶と着物3 | 更新情報をチェックする

2012年10月20日

「浅川巧日記」を歩く(後編)〜巧さんのお墓

体は頑丈であったのに、それを過信しすぎたか、巧さんは40歳の若さで肺炎でなくなった。(1931年)

「浅川が死んだ。取り返しのつかない損失である。あんなに朝鮮の事を内から分つてゐた人を私は他に知らない。ほんとうに朝鮮を愛し朝鮮人を愛した。そうしてほんとうに朝鮮人からも愛されたのである。死が伝へられた時、朝鮮人から献げられた熱情は無類のものであった。棺は進んで申し出た鮮人達によつてかつがれ、朝鮮の共同墓地に埋葬された。」(柳宗悦:編集余禄 「工芸」1931年5月号

巧さんの亡がらは白いチョゴリ・パジに包まれ、彼を知る多くの朝鮮人がお別れにかけつけ嘆いたそうである。
棺は朝鮮人が自ら進んで担いだ。
あの日鮮の不幸な反目の時代において、、、である。

彼の亡骸は里門里の朝鮮人共同墓地に葬られたが、墓地の移転に際してソウル近郊の忘憂里(マンウーリ)共同墓地に改葬された。
その後歴史の混乱のなかで、彼の墓は行方がわからなくなった時期もあったそうだが、職場でもあった林業試験場の職員達の尽力で再び発見され、きれいに整備され今にいたっている。





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宏大な忘憂里共同墓地、203363号。


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1984年8月、林業試験場職員一同によって建てられた顕彰碑。


 韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に 生きた日本人、ここ韓国の土となる


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巧さんはこの墓地に葬られている唯一の日本人。
出生地に「日本國」がついている。

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漢江をのぞむ小高い丘の上。

さわやかな風が吹いて、ここは巧さんのふるさと、山梨北巨摩郡(現・北杜市)の景色に似ているだろうか。



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近年訪れる人がふえているそうで(韓国人もふえていることを願う)、お供え物など残って古くなったのをとりのぞき、みんなで手分けしてきれいにする。

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朝鮮は土葬なので、お墓の実体は後のこんもりとした土饅頭。

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韓国式祭祀(チェサ)の準備はすべてガイドの姜さんがととのえてくださった。

韓国式礼拝の仕方は林業研究所でお世話になった白さんが自らおしえてくださる。

これにならって全員が巧さんのお墓の前で、ぬかずく。

とても自然な気持ちで頭をさげた。
写真の中でしかしらない巧さんを身近に感じた気がする。

この奇跡のような人間が、確かにこの地に生き抜いたのだ。
そして、ここに眠る。

この墓参りこそ、今回この旅に参加した一番の理由だった。






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とても彼のように生きることはできないが、人間として背筋を伸ばさなければならないとき、ふと彼の生き様を思い出すことで背中をおしてはもらえまいか。


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お参りのあとはお供え物をみんなでわけていただく飲服という習慣が韓国にはある。


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基本的になまものなので、栗も生で口にする。
お米のケーキのような物は薬食(ヤクシク)といってお盆の時に本来食べるものだそうな。

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これからもずっとこの丘に眠り続ける巧さん。
お別れの時です。


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その墓地で採取した葉(ドングリ系か)を押し葉に。
見るたびに、いつでもあの忘憂里の丘にふいていた風を思い出せるかな。


「巧さんの生涯はカントのいつた様に、人間の価値が、実に人間にあり.それより多くでも少なくでもない事を実証した。私は心から人間浅川巧の前に頭を下げる。」


(安倍能成:浅川巧さんを惜む 「京城日報」1931年4月28日〜5月6日)




   *    *    *



今回ご一緒させていただいた方々はそれぞれの方面で浅川兄弟に興味をもっておられ、熱く彼らのことを語れたのはうれしい体験でした。
なにより現地に何十回も足を運んで韓国人よりもよく現地事情を知っているといわれ、豊富で誠実な人脈を築いてこられたこのツアープロデューサーの山本先生には驚きでした。
こんな熱い研究員さんがいるから、最近高麗美術館、メジャーになってきてるんですね。
そして楽しく気持ちよく旅することができたのは現地ガイドの姜さんのお人柄のおかげです。
これまた誠実を絵に描いたような白さんに、ちょっとだけ巧さんの面影をかさねたりして。

皆々様、ここに深く感謝いたします。
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