秋の特別公開とて、大徳寺へ。
目的はひたすら忘筌!
茶室の歴史が語られるとき、かならず出てくる忘筌は雑誌などでも写真はよく見るのです。
でもやはり実際にその場に身をおいてみたいですよね。

まずは大徳寺の茶所で茶を一杯いただいていざ。

境内をつっきってさらに西へ。
この忘筌のある孤篷庵へ向かう道が昔から好きでした。

今宮神社の参道を横切ってなお西へ。
(あぶり餅食べたい!でも今日はがまんがまん)

紫野高校の横をとおってなお西進。

あ、漆器の
なちやさん、こんなところに。
でも、寄り道せずいきましょう。

いつもは門戸を閉ざしている孤篷庵、やっとくることができました。
(以下撮影禁止のため画像アリマセン)
孤篷庵・忘筌。
大名にして、天下一の造園・建築・工芸デザイナー・テクノクラート・歌人・香道家・能筆家そして大茶人、この人の正体は一体何?とだれもが思う天才、小堀遠州最晩年の茶室。
(「へうげもの」では若い頃の遠州=作介がおねえ系キャラなのが笑える)
現在の忘筌は、焼失したあと松平不昧公による再建ですが、忠実に再現されているとききます。
あんまり画像もないと話がしにくいので手持ちの雑誌の写真をあげておきます。
有名な景観です。

まずはこの写真のように見える位置にすわってみます。
う〜む、写真で見たとおり。
写真では見ることのできなかった下半分のない明かり障子と茶室の間の空間がどれほどの広さなのか、初めて体感。
意外と広いのに驚きました。
茶室との間にこれほどの距離があれば、茶室から見た時により奥行きを感じられるのかもしれません。
それにしても下半分をすぱっと切った障子に、絶妙の位置にある蹲居と灯籠。
遠州の天才ぶりをこれでもか、と示すようです。
ちなみに蹲居には「露結」と遠州の字で刻まれているのですが、これは兎を意味するそうです。
「荘子」の「得魚而忘筌、得兎而忘蹄」から、魚と対をなすものとして。
茶室は九畳+三畳の控えの間。
点前座は丸畳、わびた小間にある中柱はなく、かといって床の間は華美ではなく簡素。
天井は砂摺り、真でもなく、草でもない。
遠州のもとめたのはもはや書院でもなく、小間でもない。
書院の茶から利休が集大成したわび茶、その大きな茶の湯の歴史のうねりの中で最後にいきついたところがこれなのかもしれません。
点前座にすわってみると目の前にある風炉先にあたる板仕切り(床の間とのしきりになるのですが)に遠州ゆかりの輪違紋を発見。おもわずニンマリしてしましました。
念願の忘筌、たしかに拝見させていただきました。
さて、一つ気になったのが、孤篷庵のお庭の隅に猫よけのガーデンバリアがひっそりおいてあったこと。
ここのお庭にも猫が出入りしているのね。
(出入りはいいのだけれど、フンをしたり苔をほじくりかえすととても困ったことになるのです)
孤篷庵を辞して東にもどるときにそのうちの1匹(?)に遭遇。

サビちゃんと目があいました。
するとすすす、、とよってきて、、、、

しばし、私の足の間でのどをごろごろ。
かわいい[E:lovely]
でも、苔をほっくりほっくりしちゃだめよ。

竹林の道。

石畳の木漏れ日。

利休の墓をはじめ、三千家歴代の墓所でもある聚光院。
こちらも特別公開中なのですが、この日は月釜とあって、公開せず。
でも、茶会に来たお客さんにまぎれてなにげに中へ入ってちょっと見学させてもらいました。[E:coldsweats01](もちろん1000円はらえばどなたでも茶席へ入れますが)
もう一つの特別公開寺院、有名な茶席、というより有名な蹲居のある真珠庵へ。

一休宗純を開祖として創建されるも、応仁の乱により焼失し、15世紀末、堺の豪商・尾和宗臨によって再興。
二畳台目の庭玉軒は姫宗和といわれた金森宗和の好みといわれます。
茶室の方は比較的よくみるタイプのものなのですが、なによりここを(茶道建築的にも)有名にしているのは内坪とよばれる屋内に設けられた蹲居です。
これも写真だけはよく見ました。
こちらも撮影できませんので、見えにくいですが、パンフレットから。

宗和は雪深い岐阜の高山出身ゆえ、故郷の雪をよける工夫を持ってきた、と言われています。
蹲居と言えば露地の一角、植栽を楽しみながら使うもの、、、と思い込んでいる者にとってはビックリの発想です。
ただ緑がない分、少々味気ないかな。
忘筌、庭玉軒、どちらも写真でよく知っている茶室に実際身をおいてみることができて、とてもうれしい。
写真では無人だし、ベストアングルから撮られているので、より美しいのは確か。
でも本物の空気感、空間認識ができてこそ、より当時の茶人達の気持ちに近づけるような気がします。